またこの季節が来ましたね。3.11。
宮城県民からすれば、なんとなく時計を見たときに3時11分を見つけただけでハッとしちゃう3.11。
もう、7回目ですか・・・・。
あの日の事は一生忘れることは出来ないでしょう。
私は当時、仙台駅近くの居酒屋での勤務でした。当日は金曜日。送別会系の御予約が予約表をびっしりと埋め尽くしていて、夜の営業の準備でバタバタの昼営業。突然その時が訪れました。地下の店にも関わらず、立っているのもやっとの揺れ。これは地下でこんだけ揺れてるんだから地上階は相当なもんだろうとすぐに想像できるほどの激しい揺れ。しかも長い。ところが直近に似たような地震があったので、
「まぁ、そのうち収まるだろう。」
ぐらいに思っていたのですが、それにしても長い揺れ。それでいて結構激しい。幸い、店内にはそろそろ帰ろうとしているお客様しかいなかったので、揺れが落ち着いた所で、皆さっさと帰ろうとしていた所でした。
ところが、繰り替えされる揺れは全然半端なく、それどころか命の危険を感じなくてはいられないほど激しかったです。
さすがに働いている我々も尋常じゃない危険を感じたので、お客様には、
「お会計は後日でいいので、とにかく避難してください!」と言うのがやっとです。
避難先は駅の陸橋の下です。どうにか誘導しようと外に出ましたが、避難客と他の商業施設の従業員でごった返してました。しかも、
「駅には入れません!引き返してください!」
と、駅の人に言われる始末。そうこうしているうちに一緒に避難していたはずのお客様もいなくなりました。
これはただ事ではないぞ。誰もがそう思いました。正直その時までは、
「まぁ、落ち着いたらディナーの営業の準備を再開して・・・・。」
とすら思っていましたが、駅の機能が止まってしまっている状況で宴会などあるはずもありません。なにより従業員を無事家に帰すことが最優先となりました。そこで店のアルバイトさんは早々に家に帰るように指示を出すのですが、自身はと言うと、そこがサラリーマン。本社にお伺いを立てようとしたのでした。
しかし当然電波大混乱で携帯は繋がりません。すると目の前にちょうどよく公衆電話がありました。こんな時は鉄板ですね。ちゃんと繋がります。
「大丈夫?よかった!やっと連絡がついた!」と電話の向こう側は大喜び。
「えーと、これこれこう言う訳で、とても営業は継続出来そうにないので、本日の営業は無理だと思うのですが・・・・。」
すると、
「何言ってるの?早くお家に帰って!」と、速攻で退社の許可が出ました。どうやら東北の惨事をテレビで見てるようでした。
なんだかよくわからないけど、「帰ってよし」の許可が出たのでその場に残った社員達に「連絡あるまで自宅待機」の指示を出し(この間も余震は続いた)、解散となった訳ですが・・・・。
この後は皆さんの知る通りです。家族はとっくに避難所の体育館に避難してましたが、なにしろ電力が全て止まってます。なんの情報もないまま避難所に行きましたが、妻の携帯のワンセグと、避難所のラジオから流れるニュースは、
「●●地区、津波により壊滅」
と物騒なニュースばかり。その●●地区、私の地元なんですが。ところが避難所の方も余震の度に大騒ぎで地元の心配どころではありません。
結局不安なまま一夜を過ごし、翌日以降、事の重大さを知ることとなった訳です。
次号に続く。