3・11以降の震災景気、あの頃はみんな優しかったなぁ。それが今じゃ…。

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地震の翌日、自衛隊さんが持ち込んでくれたバッテリーでどうにか携帯の充電を確保しました。当時はLINEもface bookも普及していなかったので、従業員の安否確認はもっぱらメールと自宅の固定電話で行われました。

その日はそのやり取りで一日が終わりました。

さらに翌日、一応店舗責任者らしく、店の状況確認をする事になりましたが、

「福島で原発事故が発生しているから放射能の雨が降っている。外に出るな。」

とのデマが流れてました。おかげで家から出れません。と、言いますか、不安がる家族を置いて、わざわざ命の危険を冒して店に行く気にもなりませんでしたが。

やっと家から出たのは電力が復旧しはじめた震災の翌々日からです。久しぶりに映ったテレビで事の重大さを確認しました。そして放射能の雨の噂の真偽も知りました。

それからしばらくして、電力も戻り、店自体は営業再開できたのですが、何しろ、ガスも無ければ食材も届きません。それでもカセットコンロで何とか火力を確保し、食材は業者さんが頑張ってかき集めてくれました。

やっとの事で営業再開。震災から一週間は過ぎてました。正直お客さんが来るとは思ってませんでしたが、開けてみると空前の大繁盛。

「温かい食事をありがとう。」

毎日感謝される日々です。無料じゃないんですよ。お金を取っているのに毎日感謝される営業の日々です。

県外から来たお客様は、宮城県産と書いているだけで、金額に糸目はつけません。飛ぶように売れます。

“震災景気”の始まりです。

この宮城県を包み込んだ、震災関連工事業者、ボランティア、観光客を中心とした「震災景気」は、その後の“六魂祭”(仙台七夕、青森ねぶた、山形花笠まつりなどが一度に見られる最強の東北祭り)まで続きます。その祭りは本当に凄かったです。なにしろ、2011年初年度、人が集まりすぎてメインのイベントが中止になるくらいですから。

当時は大変でしたけど、皆、“愛”がありました。共に支えあう“絆”、多少の事ではクレームなんておきるはずもありません。

みんな、多少の料理の遅れにも、オーダーミスにもとても寛大でしたね。今じゃ考えられません。

ところがあれから7年。

“絆?”、“がんばろう東北?”

震災ボランティアは見る影も無く、復興事業もずいぶん減りました。最早、一年に一度、この日だけ県民が思い出すだけです。

ところが、被災地に足を運べば、変わり果てた故郷。

当時足繁く訪れた有名人も3・11にしか姿を見せません。いや、それすらも。

過ぎ行く時間は致し方の無いものかも知れません。でも忘れられないのは、当時店からの帰り道、電力が無くて真っ暗の道を1人帰った思い出です。電気が無いと、どんな都会でも田舎と同じで真っ暗闇になるんですよ。

今じゃどこ行った節電。

年に一度だけで構わないので、もう一度あの時を忘れないよう、3・11、家の電気を消しながら、物思いに耽る一日でもいいのではないでしょうかね。

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